SHINOBY'S WORLD SHINCE: SEPTEMBER 30, 1996




エッセイ

日記 1998年5月

 

1998.5.31.(SUN)


<今日の一言>

試験は玉砕しましたが、取り敢えず終って一段落です。

なすび

久しぶりに夜遅くまで起きていた。といっても11時には寝てしまったが。このところ夕方7時に寝るような極端な朝型生活をしていたので、これでも随分夜更かしである。

起きていたのは最近話題になっているなすびを見るためである。なすびとは日本テレビの電波少年に登場するキャラクター。顔が長いのでなすびという芸名になったらしい。

彼はアパートの一室に一人で住んでいる。そして部屋には何も無く、懸賞はがきをひたすら応募して当たったものだけで生活していく姿をカメラが追っているという企画である。

素っ裸で部屋で数ヶ月暮らしている。食料を確保するために米や食べ物の当たる懸賞に応募する。しかし現在はドッグフードしか食べるものがなく、毎日ドッグフードと水を飲んで懸賞はがきを書いている。どこまでヤラセかは知らないが、取り敢えずこの不自由さを見ていると妙におかしいのである。

電波少年といえば猿岩石のヒッチハイクで有名になったが、このなすびも共通することがある。それは敢えて制約の多い状況を作り出し、その中で若者がもがき苦しむ姿をライブ感覚で放送するというスタイルだ。

かつて身分の違いから結ばれない男女を描けば、恋愛物語になった。今や愛とか恋がジャンクフードのように安っぽく街にあふれている。日本の若者にとって現代日本は物質的に不自由はないが、栄養過多のような過剰による不愉快があるのではないだろうか。

制約されるものが何も無く、欲しいものが簡単に手に入るようになると、人はそれだけでは満足できなくなる。何らかの苦労の代償として報酬を得られるようになっていないと物足りないし怠惰になってしまう。

電波少年のコンセプトはこの適度に制約が欲しいし苦労したいという時代の空気に応えることなのだろうか。あくまで「適度に」ではあるが。

 

1998.5.30.(SAT)


<今日の一言>

本日CFAの試験です。

正論

中前国際経済研究所の中前代表が日経新聞夕刊の十字路に寄稿している。「超低金利政策に展望はあるのか」というタイトルで久しぶりに切れ味のいい文章を読むことが出来た。(5月29日夕刊)

超低金利政策で円安が加速するのは当然であり、その円安を阻止しようとして為替介入するのは金融政策の二元化であるという指摘である。

円安の阻止が株安を招かないためであり、超低金利が企業倒産と失業を防止するためという論理矛盾は根本的な構造改革を先送りにしている現状の政策の矛盾を象徴している。

経済政策の大目標は構造改革である。現状の小手先政策では問題を先送りにして最終的に大きなツケを払うことになるのではという懸念は多くの国民が気がつきはじめている。だとすれば現状の政策には展望はない。悪化のスピード調整をしているだけである。

モルヒネ療法から摘出手術に早く方向転換しなければガン細胞が体中に転移するのは時間の問題である。

 

1998.5.29.(FRI)


<今日の一言>

アクセス3万件まであと300足らずとなりました。

時間

人が与えられた時間は1日に24時間で平等である。しかしその使い方が上手い人、下手な人がいる。だから「時間活用術」みたいな本が売れるわけである。

忙しい毎日ではこまぎれの時間を如何に使うかが大切だと実感した。特に知識を身につけたり、趣味を続けていくには短い時間で毎日積み重ねていくことが大切である。

例えばバレエを毎日9時間一ヶ月続けてやるよりは一日30分で一年半やっている人の方が上達しているのではないだろうか。CFAの受験勉強をしていても、直前に何時間も勉強しなくても1年前から一日30分いや15分勉強すれば同じ時間をかけてももっと楽できるのにと思ってしまう。

人間の脳にはインプットしたものを定着させるまでの寝かせの時間があるように思う。毎日自転車に乗る練習をしていた子供がいくらやってもできないのに、ある日突然乗れるようになる。これは毎日の練習というインプットが脳内で定着したので乗れるようになったということだろう。一日で朝から晩まで自転車で練習しても急にはできるようにならない。寝かせの時間がないからである。

継続は力なりという金言は芸術でも運動でも勉強でもこの寝かせの時間が大切だと言っているのだと理解するようになった。

 

1998.5.28.(THU)


<今日の一言>

久しぶりの会社には新鮮な驚きがたくさんあるものです。

知識労働

オリジン東秀という会社がやっているオリジン弁当という惣菜屋が家の近くにある。もともと調布が発祥の地らしいが、弁当に惣菜を組み合わせた店舗が大受けで今やコンビニの弁当と熾烈な競争をしている。

近くの店に夕食を買いに行くと、レジの女の子が新しく入ったらしい。古株の女性がOJTで手取り足取り教えているが覚えるのは結構大変である。レジ打ちなんて単純だろうと思うが、結構状況判断が要求される。単品で計算するもの、グラムで量り売りのもの、など見分けてレジに打ち込む。そして出来た商品は袋に入れて会計をする。先に会計したお客もいれば、追加で買い物をする人もいる。結構てきぱきとこなしていかないと回らない。でも時給は800円である。

レジのベテランの人の動きを見ていると何かに似ている。それは銀行にいた頃やっていた、為替のディーラーの動きである。オリジンではパートの女性がレジという端末に数字を打ち込み、常に周囲の状況に注意を払っている。同時に客と厨房の声を聞き、状況判断をして間違えないように一つ一つの取引を完了させていく。

為替ディーラーも現金こそ扱わないが、基本的には売りと買いを繰り返す取引である。取引のロットが大きく、自分でポジションを取るという点を除けば、カスタマーディーラーの声と短資会社のスピーカーと端末のプライスに気を配り取引を間違えなく進めていくだけである。

「テン・マイン(10百万ドル買い)」と叫ぶか、「焼肉弁当、一丁」と叫ぶかで、片や時給800円、片や年収1千万である。この差はどこから来るのだろう。

例えばオリジンのパートの女性の中で優秀な人を為替ディーラーとして訓練したら能力を発揮するだろうか。カスタマー(顧客)の為替注文を市場でカバーする取引なら、慣れれば難なくこなしてしまうように思えるが。

だとすればディーラーの給料の源泉は何なのだろう。自分で大きなポジションを取りもせず、顧客の注文を市場でカバーしサヤを抜くような取引をしているだけなら高い給料を払う意味はない。

ポール・クルーグマン教授が正月に日経に書いていたことを思い出した。知識労働が機械にとって替られる可能性があるという意外な展開である。会計ソフトが発達すれば会計士は失業する。判例のデータベースが発達すれば弁護士は失業する。システム運用が発達すればファンドマネージャーは失業する。でも狭いアパートの部屋を掃除するロボットは当分作れない。だから知的労働者は失業しても単純労働は無くなることはない。掃除をする人は当面失業しない。

その労働が知識労働なのか単純労働なのかどうやって区別するのだろうか。頭を使う仕事のうち誰でもできることは単純といい、訓練を受けないとできないことが知的というだけなのか。つまり需要と供給の関係で区別しているという考え方である。部屋の掃除をするということは単純ではなく多くの意思決定が含まれている。でも普通の人なら誰でもできる仕事なので需給が緩く時給が低いので単純労働となってしまうのである。

アメリカでは英語を喋っても知的とは言われない。日本人で英語を喋れると通訳になれる。日本では日本語はできて当たり前だが、英語は訓練しないと喋れないからである。日本人が子供のころから英語で教育するようになれば通訳は失業する。需要が無くなるからである。

知識労働とは何であろう。

 

1998.5.27.(WED)


<今日の一言>

今日で連休は終わりです。また真面目に仕事をいたします。

不良債権

大手銀行の不良債権の分類方法が変り、また金額が増えた。全銀協の会長が不良債権問題に目処がついたと会見していたが、そのセリフを今更信じる人もいなくなった。

単純に考えれば、不良債権額から有価証券と不動産の含み益の額を差し引き、業務純益で割れば不良債権処理に何年かかるかが計算できる。上位都市銀行で4〜5年かかる計算だろうか。それ以外はまだ5年以上がザラである。

しかもこれは現状の市場価格で証券・不動産を売却でき、不良債権がこれ以上増加しないという前提での話である。不動産価格などあてにならない評価額かもしれない。

この話を書いていると、アキレスとカメの話を思い出す。アキレスがカメと競走した。前を走っているカメをアキレスは抜くことができない。アキレスがカメに追いつくとその間にカメは少し前に進んでいる。またそこまでアキレスが進むとカメは更に先に進んでいる。だから永遠にアキレスはカメを追い越せないという理屈である。

不良債権があと1兆円と目標を決め、リストラし業務純益を積み上げ、資産の売却をしてもその間にインドネシアみたいなことが起きればカメは先に行ってしまう。

リスクに見合った貸出し金利という当たり前のことを最近邦銀は始めたが、これはリスクの計測がきちんと出来るということが前提である。はたしていくつの銀行でできることなのであろうか。小判サメが生きて行けるのはサメが餌を採ってくれることが前提なのである。

 

1998.5.26.(TUE)
<今日の一言>

退職金の一部を返納するという面白いことをした人達がいます。「あいまいな日本の私」はまだ日本各所に生き続けているようです。

試験

CFAの勉強をしていると、かつて銀行員だったころ、銀行業務検定試験を受けた新人時代を思い出す。銀行業務検定試験とは役人の天下り先みたいなところが管轄している検定試験で金融機関の人間だけが受けていた。世間一般には何の価値もないのであるが、銀行内では最低何科目合格がガイドラインというように設定され、合否に一喜一憂したものである。2級から4級までランクがあり、科目も財務・税務・金融経済・法務、、、、といった具合に揃っていた。

この試験、合格ラインは60点であった。どの試験でも6割取れると合格である。合否判定と共に得点も発表された。高得点者には表彰されるという制度もあったが、成績優秀者になるのはテキストを隅から隅まで暗記したような人であり格好悪い、と勝手に思っていた。

当時、会社の同僚と競っていたのは、如何に60点ギリギリで合格するか、であった。70点より65点、65点より60点の方が無駄がないだけ効率的で格好良いという考え方である。ただし最も格好悪いのは59点で不合格になることである。

何かの試験で58点で不合格になったときは悔しい思いをした。合格できなかったことではなく58点までに使った無駄な努力に対してである。他には殆ど役に立たない知識を詰め込むことこそ苦痛以外の何ものでも無かった。

合格することだけが目標の場合、無駄を減らして最小限の努力で合格ラインギリギリまで持っていくのがアートである。逆にそこまで計算できるにはそれなりに全体を把握していないと不可能である。

資格試験と入社試験の違いは、資格試験は最低でも何でもいいからまずは合格することが大切であり、入社試験は入ってからの絵が描ける会社に入らないと仕方ない、ということである。会社は良い会社に入ればいいというものではない。そもそも自分が活かされなければ入った意味が無いしつまらない。それに今日の良い会社が明日の良い会社を保証しない世の中である。世間が言う一流会社というだけで入社するのは割高な株式を買うのと同じ過ちを犯している可能性がある。

 

1998.5.25.(MON)
<今日の一言>

大相撲には独占禁止法は適用されないのでしょうか。

割引券

個人消費不振の打開策の為なのか、割引券をくれる飲食店が多くなった。牛丼店では豚汁無料券、イタメシ屋では次回20%オフ券、焼肉店では生ビール一杯無料といった具合にどこでも券を配っている。お陰で財布の中は割引券だらけである。

割引にしないで割引券を配るのは、こういう理由だろうか。次回20%引きと言った場合、今回と次回と同じ金額使ったとすると、実際の割引率は10%である。10%引きで商売するよりも20%と言った方がインパクトがあるし、売上は2倍になるわけだからこの方が良いという判断なのだろう。

割引券と並んで、面白いシステムも生まれてきた。最近低価格の焼肉店では入場料を徴収するシステムが流行っているという。一人800円程度の入場料を取って中に入れ、焼肉一人前300円といった低価格で食べてもらうシステムである。このやり方だと入場料という固定費を取り返す為に客は注文の量が増えるという旨みがあるように思える。客としても合計で安ければ文句はない。店も客単価が上がって店の効率が良くなる。

携帯電話も割引券ではないが、様々なディスカウントサービスの競争の結果、どこが本当に安いんだか良くわからなくなってしまった。割引券競争や入場料方式など価格体系が複雑化すると本当にどこが安いのかわからなくなってしまう危険性がある。

 

1998.5.24.(SUN)
<今日の一言>

本人が気が付かないうちに、人を傷付けるような発言をしていることがあります。お互いにとって悲劇であります。

平常心

立花隆といえば愛読するノンフィクションライターである。田中角栄研究で金権政治を暴き退陣に追い込んだことで名をあげ、その後「知のソフトウエア」「宇宙からの帰還」「精神と物質」と名著が続いた。

立花隆の魅力は興味深い対象に鋭く切り込み、普通の人が考えなかったような事実を誰でもわかるように鮮やかにまとめ上げる、そのわかりやすさにあった。精神と物質ではノーベル生物学賞のMITの利根川進と対談し、精神が物質レベルで解明できるのかを平易な言葉で追及している。宇宙からの帰還は宇宙飛行士が月面に立つことで精神状態にどのような変化が起ったか、インタビューを積み重ねて興味深い結果を導き出している。

しかし最近「僕はこんな本を読んできた」を出し始めた頃から「知の巨人」と崇め奉られ「立花隆のすべて」を出すに至ってその傲慢さが鼻につくようになってきた。文芸春秋の「東大法学部は教養がない」といった立花隆らしからぬ断定的な書き方やオカルトへの過度の傾倒は何かが変わっていることを示しているように思われる。

長野オリンピックでそのゴールに涙してしまったスピードスケートの清水選手が三協精機を退社し新たな道を歩んでいくという。マスコミの報道だけで判断はできないが、あのオリンピックで感動を呼んだ滑りはもう見られなくなってしまうのだろうか。清水選手にスケート以外の才能があるのかどうかは知らないが、一度のオリンピックの結果で舞い上がってしまった悲劇のヒーローの予感を感じるのは私の思い込みだろうか。

小柳ルミ子とのコンビで知名度を上げた大澄某も独立して司会業を目指したいと言っている。売れないダンサーだった頃の苦労をすっかり忘れ、久米宏のようになりたいと周囲に漏らしているという。

レベルの差はあれ周りが見えなくなっている人は周りから見れば喜劇であるが、その結果は本人にとって悲劇である。人間とは簡単に舞い上がってしまう弱い存在であることを常に心に留め、どんな環境になっても自分を冷静に見つめ、行動できるような人間になるのは簡単なようで非常に難しい。

 

1998.5.23.(SAT)
<今日の一言>

珍しく夜の12時近くまで起きていました。

寝かせ頃

5年くらい前の音楽というのはどうにもダサくて聞かないものである。しかしそれが10年、20年前になると逆に味が出てきてよく聞くようになったりする。これを業界用語で「寝かせ頃」というらしい。

先週メールを紹介したS氏同様、私もイエス、ジェネシスなど70年代のロックのCDを最近何枚か購入した。そして昔聞いていたカセットテープを見つけてたまに聞いたりすることがあるが、それもホール・アンド・オーツ、G・ワシントンJr.、スティーリー・ダンといった10年以上前の音楽ばかりである。

車もバブルの頃のシーマやカリーナEDなんかは今見ると格好悪いが、もっと昔のスカイラインやセリカなんかを見るとレトロな感じがいい味を出している。時計も中途半端に古いSEIKOの時計より、父親が使っていたずっと昔のものの方が価値があるように感じる。

ユーミンの90年代以降のアルバムもまったく聞かないが、あと10年も経てば丁度良い「寝かせ頃」になるのだろうか。

愚行権

昨年の6月8日の日記に次のように書いた。

『なぜ援助交際をしてはいけないのか。なぜ茶髪にしてはいけないのか。なぜ高校生は煙草を吸ってはいけないのか。法治国家に住むものとして法律は守らなければならないから、というだけでは説得力がなくなってきている。

「法律で決まっているから」というだけではない感情的に納得できる倫理が欲しいと思っている人は多いのではないだろうか。それが発見できない場合、人に迷惑さえ掛けなければ何をしてもいいという割り切りになり、さらにエスカレートすると自分が考えた勝手な論理で周りさえも考えない行動に走り出す。』

人に迷惑をかけてさえいなければ何してもいい、という現代の風潮は「愚行権」という権利で説明されるらしい(日経新聞5月22日)。このやっかいな権利の行使を防止する方策は倫理という個人のモラルにしか論理的には頼れないという。

モラルの拠り所を宗教に向けられる国家と違い、宗教にも教育にも倫理を確立する力のないこの国では愚行権を阻止する方法は当面見つからないだろう。

 

1998.5.22.(FRI)
<今日の一言>

恵比寿駅から天現寺まで歩いてみました。面白いお店がたくさんあって楽しめる道でした。

錬金利術

大手消費者金融が過去最高益を出している。それに対して日経は「消費者金融の“錬金利術”」と儲け過ぎ批判の記事を載せている(5月21日朝刊)。製造業が利益を上げれば誉め称え、金融業だと儲け過ぎと批判するこの記事には違和感を感じる。

消費者金融とは銀行や証券と違い、届け出さえすれば参入できる業界であろう。貸出金利が下がっていないと日経は批判するが、参入が容易で競争的な市場であれば、金利は貸出し競争で適正な水準にあるはずである。リスクリターンを計算しお金の小売業を成り立たせる金利水準で借りたい人にお金を貸して何が悪いのか。トヨタが儲かっているからといって車の値段を下げるべきだ、とは言わないのに不思議な理屈である。

消費者金融が多重債務者を作るとの批判も的外れである。問題は消費者金融にあるのではない。資金がどうしても必要になったとき、消費者金融が貸してくれるから借りるのである。逆に金を借りる理由がなければいくら金利を上げようが下げようが金を借りたりはしない。つまり消費者金融はニーズに応えることで利益を上げているのである。

無人貸出機が借入れを安易にし、多重債務に陥りやすい構造になっている、との指摘もピンとこない。無人貸出機が心理的な障害を取り除き、顧客の拡大につながったことは確かだろうが、だからといって安易に貸出しなどしたりはしない。そんなことをすれば自分の首を自分で絞めるだけのことだからである。

彼らは個人破産を作ろうと営業しているのではない。健全な顧客に貸し付けをして健全に回収するのが仕事である。そのために懸命の努力をしている。商売の武器は小口貸出しによるリスクの分散と与信リスクの木目細かな管理である。そして迅速な貸出し実行により消費者のニーズに応えている。多重債務に陥る危険のある人にはまともな業者は貸したりはしない。

一部に悪得業者がいるのかもしれないが、それをもって業界全体を批判するのはどうであろうか。貸し手責任を重視する余り安易に金を借りておいて返せなくなると貸した方が悪いと開き直るのもいただけない。借り手に対しての教育の必要性といった問題も指摘されるべきだろう。

繰り返すが銀行と違って許認可産業ではない。つまり激しい競争をしているのである。カルテルで保護されている新聞業界のような甘い商売をしているのではない。消費者金融批判は自分のことを棚に上げた、金融が虚業だという偏見と新興勢力に対する僻みの産物ではないだろうか。

 

1998.5.21.(THU)
<今日の一言>

急に夏になりました。家にいると去年の無職だったころを思い出します。

接待

赤字に転落して本社を売却する大手自動車メーカーが接待の原則全廃を打ち出した。一方最高益更新したトヨタの社長は接待は必要と別の考え方をしている。

官庁で問題になった接待にはどんな問題があるのだろうか。一つには公正な取引が阻害され非効率な取引が行われるという問題がある。接待を受けた結果、割高な商品を購入するようなことになれば、接待が市場の効率性を損ねたことになる。

しかし官庁の許認可権限が接待で歪められることはあっても、民間企業同士の場合、接待で効率性が損なわれる可能性は低い。同じ値段で質の悪い商品を買えば、企業間の競争に負けてしまうし、最終的には株主のチェックがはたらくからである。もちろん談合や機密漏洩といった不正な取引に使われるのは論外であるが、市場競争の中で接待をする、しないは企業の判断で決めればいい問題である。

接待のもう一つの問題はいわゆる料亭などでの接待価格と言われる市場価格の歪み、である。これは接待が自腹で行われないために、価格チェックが甘くなり、二重価格を産みだす問題である。この問題も最終的には民間企業の場合、コストに跳ね返る訳であり、競争的な産業であれば接待にも効率性が要求され、過剰な二重価格は解消されるはずである。

つまり規制産業においては規制による超過利潤の一部を接待費用に使うことが可能になり、上記のような過剰な接待が行われ効率性を損なう可能性がある。しかし市場競争の激しい業界においては接待するしないは個別企業が判断すべき問題ではないだろうか。

接待禁止といい出した会社はどういう理由があってなのだろう。単なる経費削減としての思い付きならこの会社の将来は暗い。

 

1998.5.20.(WED)
<今日の一言>

本日より1週間休暇です。一応CFAの勉強ということになっています。

人事異動と転職

転職といわれても最近では自分の周りでもありふれてしまって余り新鮮さを感じなくなってしまった。自分の勤めている会社でも入社してくる人もいれば新たなキャリアを求めて辞める人もいる。

日本の会社とは異なり、外資系には原則として人事ローテーションというシステムはない。一度配属になったセクションに基本的にはずっと所属することになる。従って上司も同僚も基本的には同じ人とずっと付き合うことになる。

専門職を育成するという意味では意味の無いローテーションなど無い方が良いのは明らかだが、弊害もある。一つは仕事のたこ壺化であり、もう一つは人間関係の固定化である。

たこ壺化は「This・is・not・my・job.」という表現で代表される。自分の領域の仕事をやってさえいれば後は知らないという意識である。この状態が過度に進むと、セクション間の仕事のつながりが悪くなり、部分ではきちんと出来ている仕事が全体では機能しないという事態になる。

人間関係の固定化はヘッドを村長とする小さなムラ社会を作り出す。各チームがムラを形成しムラが集まって会社を構成する。ムラの住民になれるかどうかは村長の好き嫌いが反映する。村長とソリが合わなければ下克上を起こすか辞めるしかない。

労働市場の流動化はこうした問題をある意味では解決する。たこ壷化によって仕事がやりにくくなった人はもっと仕事のやりやすい職場を求めて転職する。ムラ社会のルールに馴染めない人は別のムラに移っていく。たこ壺化したムラも余り変なことをしていると住民がいなくなってしまうのである。これがチェック機能にもなる。

マイクロソフトのウインドウズがディファクトスタンダードになったことは、転職を加速する。どこの会社に行っても共通の仕事の方法でパソコンを動かせるからである。研修やトレーニングを長期間受けなくても新しい会社で即時適応可能になる。会社のインフラという意味では企業間の格差が無くなってきたのである。

外資系にとって転職とは日系の人事異動のようなものである。ただ外資系は同じ仕事を違う会社でし、日系は違う仕事を同じ会社でするということである。そしてもっとも大きな違いは転職は自分で選択した道であり、人事異動は人から与えられた道であるということだろう。

 

1998.5.19.(TUE)
<今日の一言>

朝型の生活パターンになってしまいました。9時過ぎには眠くなってしまう毎日です。

しきい値

木の棒を曲げていくと、途中まではしなりながら曲がっていくが、ある一点を超えるとボキッと折れてしまう。これがしきい値といわれる限界である。

ものを食べすぎて太りはじめても最初は誰も気が付かない。ある一定の体重になった頃、誰かが「お前、最近ちょっと太ったんじゃない」と言う。これもしきい値である。

物事にはすべてしきい値といわれる限界点がありその向こう側とこっち側には大きな差がある。端的にいえば物事はほどほどに、というのが教訓になろうか。しきい値がどこにあるかを把握できれば、どこまでリスクをとっていいのか事前に対策を立てることができる。

インドネシアのスハルトもマイクロソフトのビルゲイツもしきい値の計算が今回はすこし甘かったようである。(12min)

 

1998.5.18.(MON)
<今日の一言>

このまま梅雨に入ってしまうのでしょうか。気分の悪い気候が続きます。

寿司職人

テレビで江戸一という渋谷のセンター街の老舗の寿司屋の板前さんが、回転寿司の板長になる、というのをやっていた。寿司業界では回転寿司や食べ放題といった低価格の寿司が急成長し昔ながらの寿司屋を脅かしているという。

寿司職人歴20年の板前さんが回転寿司に修行に行くと、そこではロボットが寿司を握っている。ここでは寿司は握るものではなく、ネタをご飯にのせていく「作業」となる。パートのおばさんに「ネタをできるだけ速くのせていくように、時間が勿体無いから」と言われる。チャップリンのモダンタイムスの世界なのである。作るのは寿司だけではなくいちごミルクなどのデザートの盛り付けまでやらなければならない。職人としての過去の経験がまったく生かされない。

消費者が望むものは安くて美味しいネタであって、握りの巧拙や職人との会話ではない。回転寿司はいいネタを仕入れる為にどうすべきかを考えた結果の商売である。人件費を抑え、回転率を高めコストを落としてネタの仕入れに回す。高級寿司店が残っている一方、中途半端な寿司屋は回転寿司に取って代られれる。

職人の姿を見ていると、将来の自分が見えたような気がしてドキッとした。ファンドマネージャーというある種の専門職をしている自分にとって、回転寿司とはインデックス運用のファンドのようなものであろう。フィーを安く設定し、市場の動きに連動するファンドの方が、魅力を感じる投資家もいるであろう。

アクティブマネージャーとして寿司の高級店のように生き残っていくためには、卓越した運用利回り(ネタ)、充実したレポート(客との対話)、信頼感(ブランドイメージ)といったものがなければならない。アクティブマネージャーの中でその条件を満たすものは果たして何社あるのであろうか。

中途半端な運用機関は低価格を武器にした「回転寿司」にとって替られる日は近いと思った次第である。

 

1998.5.17.(SUN)
<今日の一言>

日曜日は午後から良い天気になり、私の花粉症にも磨きがかかりました。辛い週末。

対話

マーケットメカニズムというタイトルでS氏より長文のメールを頂いた。余りに面白いので全文そのまま引用する。

CDが売れなくなったという。様々な分析が行われているが、見落とされている点がある。それはセカンダリーマーケットの成長である。一般にCDの売り上げとはレコード店での売り上げのことであり、実際にはCD製造元の出荷枚数をさしていると思われる。これはプライマリーマーケットに相当する。これに対して最近いわゆる中古CDを扱う店が急に増えてきた。近年のリサイクルブームも背景にあると思うが、何よりもかつての中古レコードとの本質的な違いとしてはCDが非接触式であり音質が劣化しないということが挙げられる。更に、紙で出来ていたレコードジャケットと異なり、CDの場合プラスチックのカバー(1個50-100円)を取り替えれば実質的に殆ど新品同様となる。

私の家の周辺(新興住宅地)にはプライマリーの店舗よりもセカンダリーの店舗の数の方が多くなった。しかも大規模店である。そしてセカンダリーマーケットはプライマリーとは異なる面白さがある。なぜならば、再販制度に守られて定価で販売されている新品市場に対し、中古市場は完全な「フリーマーケット」が成立しているからである。値段のバリエーションは相当なものであり、定価に近いものもあれば100円のものもある。1枚のCDを買う予算で極端な話30枚買える。私の場合は平均5000円で57枚買うのがパターンになっている。「CDが自己増殖する」と家族が悲鳴を上げているが、経済的なインパクトはいくらでもない。

高値のついているCDはどんなものか。ひとつは新譜発売1年以内のもので、これは蓋し当然である。通常のアーチストの場合、新しいものはそれなりに高く、5-6年前の作品はジャンクになる。ところがアーチストの人気が「本物」で「根強い」場合、例えばスピッツ・古内東子・ピチカートファイブなどは、高値安定である。私も全作品持っているが一枚も売るつもりはない。皆が手許に保有するから市場での需給はタイトになり値は安定する。もう一つの要素は絶対的流通量である。人気のあるミュージシャンであっても供給が多すぎれば若干値段は下がる。大黒摩季やザードはこの例である。ドリカムはいかにも流通量が多すぎる。とはいえ、そこそこの値は保っている。

これに対し、古いものほど値が高い例もある。松任谷由実・中島みゆき・サザンオールスターズの名門御三家である。例えばユーミンの場合、90年台前半確かにどんどん音楽は洗練されてゆき、作品は全てミリオンセラーになったが、それらのアルバムの値段は悲惨である。しかし80年台のものはしっかりした値がついている。初期の万葉ぶりを示した「古典」はもっと高い。中島みゆきもサザンオールスターズも同じである。1950年代のジャズや1970年代のブリティッシュロック等も「古典」の地位を確立し、定価の半額程度で安定的に推移している。

一時人気が出てミリオンセラーになったものの旬を過ぎてしまったもの、これは悲惨である。例えばTRF。「ミリオネイヤー」などどこの店でも大量に積まれておりその題名とは裏腹にジャンクプライスである。その他、チューブやチャゲ&飛鳥など。言うまでもなくこれはファンにとってはグッドニュースである。市場と自己の好みにギャップがあれば自分の好きなアーチストのすべてのディスコグラフィーを嘘のような値段で揃えることも可能である。(ただし通常ファンは定価であっても喜んで買う人たちなので、ジャンクで漁っている人をそう呼ぶのには無理があるかもしれない。)最後に、流通量が少ないのに値のつかない一群の作品。例えば山田邦子の「やまだかつてないCD」。聞いたことがないので「はじめからジャンクだったのでは」という疑問は保留しておこう。

中古市場が確立するほど逆にいわゆる新譜レコード店は「新譜」の比重が高まり、生鮮食料品売り場と化している。いつでも買えるCDなのにどうして発売日で大騒ぎをするのかよくわからなかったが、3月のスピッツの新譜を楽しみにしている自分を発見し謎が解けた。視点を逆転させてみれば、マーケットプライスのついているセカンドリーが普通で、新譜は前売りなのである。「売れ残ったチケットは値段を下げて販売すればいい。定価以下の販売により前売りの方が値段が高くなっても問題はない。差額はチケットを確保するための保険料である。」という内藤氏の長野オリンピックについてのダフ屋取り締まり批判にも符合する。

かつて一枚のLPレコードの値段が月の小遣いより高かった頃、それでも2ヶ月分をためてアルバムを買った。例えばディープパープルの「バーン」が気に入った1970年台の高校生は、次の2ヶ月めには「マシン・ヘッド」次には「イン・ロック」と溯って買うのに全財産をはたき、かつ都合半年近くかかっていた。それが今では一般には見放されたアーチストの場合1週間のランチ相当分で全作品が買えるのである。全く夢のような話しである。私の場合渡辺美里がこのケースである。これでは「出荷枚数」で見た売り上げが落ちているのは当然である。

内藤氏は不動産について以下のようなコメントをしている。「(略)不動産スワップなんてものを発達させ、必要な時期に必要な家に住めるようにならないものだろうか。 (略)都心のマンションから郊外の一戸建てに引っ越したい若夫婦と子育ての終わった郊外に住む老夫婦が期限を決めて住居を交換する。こんな市場を作ることはできないのだろうか。」「(需給の)ミスマッチを改善する方法があれば、もう新しい住宅などたくさん建設しなくても今後は供給は十分のような気がした。」私は、GLAYを売って古いジャズを買った。音楽の世界ではこれがごく普通になって来たということだ。セカンダリーマーケットの値段は正直である。何の規制もないこの自由市場では経済学の教科書どおりの需要供給曲線を実感することが出来る。内藤氏の指摘する不動産価格についてての以下のような指摘と同じである。「取引が殆ど無く、市場価格のよくわからない日本の不動産にはっきりとした市場価格を示しているだけである。」

この事から様々な結論を導き出すことが出来る。ビッグバンとの関わりで話を締めくくるのは最もオーソドックスだろう。マーケットにさらされて消費者は訓練を受ける。規制に守られた既存のスタイルの金融機関はプライスが30分の1になり得ることを覚悟すべきである。いつでも「旬」を提供し続けるか、あるいは「本物の人気」を確立し「古典」に昇格するかしか生き残る道はないのである。逆に、古典はその本物性ゆえに常に旬でありそれゆえに世の中が高度で洗練されるほどに実は素朴な万葉ぶりは人の心を打つのだと思う。

彼は私の日記を読むことによって自分の思考が刺激を受け、対話が行われる状況を楽しんでいるようである。ここまで書かれると私など圧倒され何も言えないが、彼にはHPの開設を強く勧めたい。

 

1998.5.16.(SAT)
<今日の一言>

NEWSとは東西南北の頭文字をとって作った言葉だというのは本当でしょうか?

新しい訪問者

最近長文のメールを下さる方がまた増えてきた。

調布の方からは近所にある「朱雀門」(布田1−1−2、0424−86−9107)という焼肉屋さんを紹介され早速行ってみた。布田天神に向かう通りにあるこの店は20人も入れば満員の小さな見た目にはごく普通の店構えである。メールに書いてあったとおり、ユッケ、上タン塩といったメニュを注文した。さっぱりとしているが、肉が新鮮なせいか後味が大変いい。ロースが600円、上カルビでも千円以下という良心的な価格設定もいい。でも最高だったのはレバ刺しだった。肉厚で新鮮なレバーを特製のタレにつけて食べると思わず生ビールを飲み干したくなる味だった。これは病み付きになりそうな味である。

蕎麦のページを見て美味い蕎麦の店を紹介してくれた人もいた。お薦めベスト3は布恒更科(南大井)、ほしの(田無)、吟八亭富岡や(亀有)(千葉の竹薮系のお店)、だそうである。メールを見ているうちに蕎麦が食べたくなるから不思議である。

この日記が日記ではなく対話(dialogue)だという発想のメールを送って下さった方もいた。『プライバシーとパブリシティーの中間は多分「書くこと」にとっては最もオプティマルな形態かもれない』というご意見である。

本やテレビのようなマスメディアでメジャーになるわけでもなく、気の合った人と意見や情報を交換する関係。といってもべたべたした関係でもない、微熱の交友関係を築けるのがネットの魅力の一つであろう。こうして様々な意見や情報を送って下さる方とのコミュニケイションの為にも、毎日少しでも日記を更新しようと思った次第である。

 

1998.5.15.(FRI)
<今日の一言>

花粉症がひどくなる一方です。

法廷写真

今週の「Friday」にオウムの松本被告の法廷内写真が掲載されているという。東京地裁は講談社に厳重抗議している。法廷内写真は禁止されているから当然の抗議ではあるが、その理由とは何なのであろう。

例えばアメリカでは法廷にテレビカメラが持ち込まれ生放送する番組まであるという。アメリカのやることがすべて正しいとは思わないし、そこまですることがいいとも思わないが、少なくとも今の密室型の審議では国民の信頼が得られない状況になっているのではないだろうか。

法曹会も少しずつ変わりつつある。司法試験の制度改革は放送関係者の入口の競争を緩和し、入ってからの競争を産み出すという意味で画期的ではある。こういった流れが法廷写真に対する考え方も変えていくのではという期待を持たせる。

今までの日本は、優秀だと言われる少数の人を試験というある一側面では公平な方法で選抜し、彼らに全般の信頼をおいて任せるという方法を採ってきた。官僚は公務員試験という身分や貧富に関係なく合否を決定する制度によって選ばれ、彼らが実質的に国の政策の立案を行ってきた。国民は公平に選ばれた責任感あるエリートがきちんとやってくれることを信用していた。

司法界も同じである。司法試験で司法の適任者を選抜し、彼らが下す判決に国民は従ってきた。しかしこういった入口での試験による選抜で意思決定者を決めて、彼らに大きな権限を与えるという手法が通用しなくなってきている。

試験で一旦選ばれた人はきちんとやってくれる、という性善説から人間誰しも弱い存在であり間違えを犯すという性悪説を前提にしたシステム変更が求められている。そのために必要なのはある人がやっていることを別の人がチェックするというモニタリング機能である。

汚職、横領、不正取引、背任といった犯罪はモニタリングが機能しない場合、本人の良心以外防止策はない。しかし良心とは環境によって誰でも簡単に麻痺してしまうのは大蔵省を見れば明らかである。法廷にカメラを持ち込むことですべてが解決するとは思わないが、モニタリングという観点からはメリットがあり、導入によるデメリットは無いのではないだろうか。

法廷にカメラが持ち込まれることによるデメリットといえば、法廷画家の失業問題くらいといったら言い過ぎであろうか。

 

1998.5.14.(THU)
<今日の一言>

ゲームセンターでUFOキャッチャーのぬいぐるみをとって無邪気に喜んでいるおじさんがいました。おじさんの笑顔を見ているとなぜか悲しい気持ちになりました。

合併と提携

日本最高の頭脳を抱え人材の宝庫あるいは人材の墓場といわれた産業金融の雄と、日本最大の証券会社が業務提携を発表した。デリバティブとアセットマネジメントで新会社を作りここ数年の外資系の台頭に対抗するという。果たして上手くいくのであろうか。

ポイントは合併ではなく提携であるということにあると思う。ソロモンとスミスバーニー、シティとトラベラー、UBSとSBC、メリルとマーキュリーなど欧米の金融再編はすべて合併である。合併による日本の現地法人の動きを見ていても、合併によりどちらの会社がどの分野で主導権を握るか壮絶な闘いがあり、生き残ったものが新会社で仕事をしている。

例えばソロモンは債券、スミスバーニーは先物といった得意分野で人が生き残り、敗れた者は会社を去っていった。株式アナリストも同じ分野の担当者がダブってしまう場合どちらかが会社を追い出されていた。合併とは会社にとってはハッピーかもしれないが、大多数の社員にとっては仕事の奪い合いになる恐怖なのである。

興銀と野村の場合どうであろうか。合弁会社にまた人を送り込み前と同じ仕事をする。人減らしも無いし、会社のプレステージも上がる。きっと社員は喜んでいるのではないだろうか。

そもそも日本連合という発想が、グローバルに最適なパートナーを選ぶというより日系で一番まともなもの同士という消極的選び方である。それぞれ日本市場では確固たる地位を築いている会社であることは間違えないが、提携したところで新しい付加価値が産み出されるとは思えない。日本的意思決定だから最初の一歩としてはこれでもいいのだという意見もある。しかし世界の金融の流れの中で日本の会社だけ例外でいいか。それは市場が判断することだろう。

敢えて例えるなら欧米の金融再編が肉食動物の餌の奪い合いだとすれば、今回の提携は猿山のノミ取り程度の出来事であろう。(25min)

 

1998.5.13.(WED)
<今日の一言>

英語のメールを頂いたアメリカのTさん、調布の美味しい店を紹介してくれたHさん、メールありがとうございます。

ランド債

東和証券の販売する南アフリカランド建債券を買ってしまった。残存期間約29年という償還まで保有するとしたら気の遠くなるような債券である。29年後私は60歳を越えているが、どこで何をしているのだろうか。そんな先、生きているのかさえわからない。しかもゼロクーポン債なので途中の利金はまったくない。29年後に23倍になって返ってくる。この債券の格付はAAAである。人間にも格付というものがあるなら29年後の自分の格付は今より悪くなっているのだろうか。AAA債券よりデフォルト率が高いのは確実だろう。

東和証券は店に行かなくても通信で取引できる。郵便局から振り込みをし、電話で「ランド債券XX万円買って下さい」と担当者に言ったら、「本当に買ってよろしいですね。大変リスクの高い商品ですがよろしいですか。」と何度も念押しされてしまった。

いずれにせよまた一つ楽しみが増えた。競馬やパチンコで博打をするならこんな投資でもしている方が個人的にはずっと楽しい気分に浸ることができる。

2極化

会社の近くに一八(いちはち)という和食の名店がある。お昼はランチと称して焼きたらこ定食というのを出していたが、これが秀逸であった。たらこの火の通りが丁度良く、おいしいご飯と食べるとそれはもうたまらない味であった。

ところがその一八がランチを止めてしまった。夜だけの営業に特化するということらしい。昼も夜も繁盛している店にとって昼のランチを敢えてやる必要が無くなったという事であろうか。

世の中景気が悪いと言っているが、繁盛店は相変わらずというか、以前よりも込んでいる店が多い。美味しくて値段も割高感のない店はいつもお客で一杯である。ナイス・フード・アット・リーズナブルプライスがキーワードであろうか。

景気が悪ければ悪いほど、人々は安いものを求めるだけではない。価格と満足度の比率に敏感になる。「安かろう悪かろう」ではなく「安かろう良かろう」でなければ客は来ないのである。当たり前のことが当たり前になる。良い時代になったものである。 (30min)

 

1998.5.12.(TUE)
<今日の一言>

梅雨のような天気が続いています。体調を崩さないようご注意を。

すかした奴

この日記を読んでいただいている方は何人いるのであろうか。一日のアクセス数が約100件として毎日読んでいる方が恐らく30人たまに読む人が1回しかアクセスしない人も含めて200人位であろうか。

その内、私と面識がある方は恐らく半分もいないであろう。毎日読んでいる方でもお会いしたことが無い方が結構いらっしゃるように思う。

会ったことがある人とない人ではこの日記に対する印象が違うようである。会ったことが無い人はクールな理屈屋と思っているようであるが、顔見知りの人から見ると格好つけたすかしたページに見えるらしい。

自分では格好つけているつもりも無いし、虚像を構築しようとも思っていないのであるが、そんなにすかして見えるのだろうか。文章だけでその人のキャラクターまで理解するのは難しいことなのである。

名字は?

最近の歌番組を見ていると変な名前のミュージシャンが増えている。かつてはバンドの名前がラルクアンシエルとか読み難いのが多かったが、このところCoccoとかKiroroとかMisiaとか名前だか何だか分からないような女性実力派ミュージシャンが目につく。

それぞれに意味があるのであろうが、こういった名前にも流行り廃りがあるように思う。テニスのサークルの名前やペンションの名前、車の名前にも流行があるのと同じ事なのだろう。Hitomi、りょう、ひろみ、きたろう、なんて聞くとつい名字は何なのだろうと思ってしまう。

(25min)

 

1998.5.11.(MON)
<今日の一言>

今日の一言がパソコントラブルで消えてしまいました。指摘いただいた方、感謝いたします。

日記

ホームページの日記とは本当の日記とは異なるものである。自分の日記なら書けるような秘密や、人には言えないような考えを日記には書けるが、このページには書けない。

昨日の日記は本来の自分の日記に近い内容であったが、何だか読み返してみると人が読んだらつまらない内容だろうと思った。つまり本当の日記は本人の備忘以外の意味はない。覗き見の楽しさはあるのかもしれないが。

インスタントラーメンを食べることは滅多に無いが、あれは今や従来のラーメンとは別の新しい食の領域を開拓したのではないか。店で食べるラーメンとは麺もスープも具もまったく別の食べ物になっている。

日本のワインを飲むとフランスのものとは香りや味が明らかに異なる。日本のワインは言ってみればぶどう酒とも形容できるまろやかで甘みが強い万人向けのテイストである。フランスワインはピンきりではあるが、数千円のものでも個性が強く独特の香りがある。つまり日本のワインは外国の真似をしてようとして結果的にぶどう酒という新ジャンルを開拓してしまったのではないか。

ホームページ日記も似たような現象だと思うようになった。インスタントラーメンやぶどう酒のような派生商品の一種であるという考え方である。人に読まれることを前提に自分のことを書いていく不思議な空間。もう少し文才のある人がこの分野に参加するようになれば、将来二人称告白体の第二の太宰治が生まれるかもしれない。

 

1998.5.10.(SUN)
<今日の一言>

睡眠

一日のうち、起きていたのは何時間あっただろう。そんな一日だった。朝の7時に目を覚まし朝刊を読むも眠くて、そのままベッドへ逆戻り。次に起きたのが11時。お腹が空いたが、大した食べるものもないので、深大寺に蕎麦を。いつものようにとろろそばを多聞で食べて、家に戻ると体がだるい。仕方ないのでお昼寝。うとうとして気がつくともう5時。しばらくボーっとしていたが、夕方「愉園」という中華で食事。それから9時前にはまた寝てしまった。結局起きていたのは6時間も無かった。

脳の金属疲労であろうか。逆噴射しないためにはたまにはこういった一日も必要なのだと納得した。

 

1998.5.9.(SAT)
<今日の一言>

季節はずれの花粉症に悩まされはじめました。何が原因なのかわかりません。

一番

1番と2番には大きな差がある。マクドナルドには良く行くがロッテリアには滅多に行かない。吉野屋には行くが松屋には滅多に行かない。ドトールでコーヒーは飲むが、プロントには行かない。

1番と2番には何か大きな差があるように思う。それは味でありサービスであり、満足感である。ブランドイメージによるものなのかもしれない。中途半端な2番手に勝ち目はない。ロッテリアはモスバーガーを見習わなければならないし、松屋はメニューの多様化で差別化するしかない。プロントは夜のアルコールビジネスに活路を見出すしかない。

プロゴルフでは優勝しないと賞金は稼げない。歌手もヒット曲をトップセールスまで持っていかなければ売れない。しかし1番になることはスポーツ界や芸能界だけではなくビジネスでも重要なことなのである。

デッド・クロス

アメリカの失業率は4.3%まで低下した。一方日本の失業率は3.9%まで悪化している。いよいよこの数字が日米で逆転する時が近づいている。ドル円は133円台で推移し、日本の長期国債指標銘柄は1.325%と数字が逆転した。ここではもうデッドクロスが実現した。円安債券高の結果である。

次は日経平均とダウのデッドクロスであろうか。アメリカの株のバブルを指摘する人は多いが日本の株の急落を指摘する人は少ない。しかし日本株の唯一の買い手は政府による株価対策であり、根本的な日本の株式市場の変化ではない。相変わらずの先送り政策で市場にはエネルギーが貯まっている。

ウールワース

シティとトラベラー、ベンツとクライスラーという大型合併が株式市場の話題を独占している。同じ時期にずっと地味ではあるが、ウールワースというアメリカの小売り雑貨店が昨年末に店舗を全面閉鎖し、フットロッカーやスポーツオーソリティといったスポーツ用品の販売に経営資源を集中させるという大胆なリストラを始めた。

ウールワースというとアメリカの余り治安の良くないような地域に中途半端な大きさの品揃えの良くない店を展開しているというイメージだった。衣料品の隣でインコを売っているような変な商品陳列だったのを覚えている。

そんな過去の失敗に終止符を打ち、スポーツビジネスに大きく舵を切る決断は成功を保証するものではない。しかし座して死を待つよりは、行動しようとする経営陣の意気込みを感じる。

大塚家具は売上不振の時、会員制という販売手法を取り入れ、有明に大規模なショールームを作って再生した。日本の小売業の不振が言われて久しいが、不採算店の大規模な閉鎖、新しいカテゴリキラーへの業態シフトといった根本的革命を行わなければ解決の道のない企業も多い。大胆かつ迅速な決断が勝者となるのであろう。

 

1998.5.8.(FRI)
<今日の一言>

もう梅雨入りのような天気。これもエルニーニョの影響でしょうか。

合成の誤謬と文殊の知恵

債券運用の仕事をしていると、いかに適切な市場の分析をし、それを自分の投資方針に反映させ、迅速に実行できるかが運用成績の鍵を握ると思っている。

適切な市場分析とは経済のファンダメンタルズから始まって市場参加者の短期的心理状態まで様々なデータの積み上げとそこから導き出される仮定と検証の繰り返しから確率の高い予想が生まれる。

次のプロセスとして分析した結果を投資方針にいかに反映させるか、ということがある。例えば株式について弱気な分析結果が出たとして、どの銘柄をどの程度売却するのか、といった問題である。比率を何%下げるのか、売却した資金はどこに持っていくのか。これらの意思決定は計量分析のように明確な解のない作業となる。

こうした意思決定のプロセスにおいてファンドマネージャーが個人の能力でポジションを変えていく方法ではなくチームで議論をして意思決定を行う場合、利点と欠点がある。
利点は3人寄れば文殊の知恵ということである。議論を通じ別のメンバーからのアイディアが新しい投資戦術を産み出すことは多い。しかし問題は合成の誤謬といわれる失敗である。一人一人は間違ったことは考えていないにも関わらず会議の結果がなぜか誤ったものになってしまう。これは第二次世界大戦での日本軍の失敗を引き合いに出すまでもなく思い当たる人が多いであろう。

個人の意思決定の質を高めると同時に集団の意思決定のプロセスをどのようにコントロールすればいいのか。これは「すぐれた意思決定」(印南一路)を読んでも決定的なことは書いてない。実践の中で自分で考えていくしかない。

 

1998.5.7.(THU)
<今日の一言>

無知もまた力なり

大学生から社会人にかけての頃は所謂バブルの前兆の時期だった。海外旅行に行く人が増え、円高が急速に進み、日本が上り坂を上がっていく戦後経済復興の仕上げの時代である。そんな時代背景もあってか、当時の私の生活はかなり目茶苦茶であった。犯罪は犯したことはなかったが犯罪スレスレのことを平気でやっていたような気がする。そんなことにリスクをまったく感じなかったのは、若かったからかもしれないし時代のムードがそうさせたのかもしれない。

物事にはリスクとリターンがあるということを知ったのはそれから数年経ってからであった。カントだかニーチェが「知は力なり」といっていたように思うが、私に言わせれば、むしろ「無知もまた力なり」といった方がフィットする。

知力だけでは切り開けないこともあるのであろう。

時代

大磯小磯は休みがちで残念であるが、本家大機小機は頑張っている。

今日の「横風」氏は大蔵・日銀の接待汚職について書いている。この問題の総括ができていないのは何が悪くて何が許されるかはっきりしないことにあるという指摘に賛成である。

『接待が悪い、というのは今だから言えることで当時の空気から言えばそれは容認範囲と見られていたことであった。その時の空気を忘れできもしないことをだれでも出来たの如く安易に批判したり簡単に反省しても何も生まれない。安っぽい正義感と安っぽい反省は軽い。一連の事件で問われたのは、普通の人ならだれにでも当てはまる愚かしさであり「時代」そのものだ。』

自分を省みず人の批判ばかりしている世間の風潮を見ていると情けない気持ちになる。問題はかつては容認されたことを過去に溯って追及されるという事態と、そこに明確な基準がないという曖昧さである。これでは追及される側もやりきれないだろう。

もちろんマンションの値引き要求や領収書のつけ回しなど明らかな犯罪もあった。しかし情報交換の名目での民間人との交流はむしろ必要なことと推奨されていたのではないだろうか。どこまでがシロで、どこからがクロなのか。はっきりしなければこの問題は曖昧なまま解決しない。

そして過去に正しいとされたことを後にひっくり返されるのもたまらない。禁酒法になったら今、酒を飲んでいる人が全員犯罪者になってしまうようなものである。

必要なことは誰がいくら接待を受けたかばらすことではない。

 

1998.5.6.(WED)
<今日の一言>

梅雨に入ったかのような冴えない天気です。

将来の夢

どこかの生命保険会社が調べたところによると、小学生の男性が将来なりたい職業の第一位はサッカー選手から野球選手に戻ったそうだ。そしてコックというのがベストテンに初登場したと書いてあった。

自分が子供の頃何になりたかったかは良く覚えていないが、コックという発想はなかった。時代は変ったものである。料理の鉄人といった番組の影響もあるのであろう。

その内にソムリエなんていうのもランキングに入ってくるかも知れない。子供のピュアな感性と時代を見るしたたかさが同居しているのがこのランキング表の面白いところである。

 

1998.5.5.(TUE)
<今日の一言>

連休中はメールもアクセス数も減りました。ゴールデンというには寂しい休みが終ります。

弱いものが強い社会

借地借家法が改正されるらしい。今までの借り主に圧倒的に有利な契約を、一定期間を決めての契約にすることができるようになるらしい。しかしこの案には追い出されるリスクがあるとして借家人の団体が反対している。そこで既存の契約は存続するという折衷案で改正に臨むことになりそうだ。

借地借家法に限らず日本の住宅事情が改善しないのは自業自得の部分があるのではないだろうか。容積率緩和してもマンション建設反対を唱える既得権益を守る住人が周りにいて建設できなかったりする。あるいは駅前に広大な農地を持ち、適当に農業をやって緊急時の避難場所になりますと看板を立てて税金を節約しているのもよく見る光景である。

これらはすべて土地の既得権益を認め過ぎることから、全体の効用を減少させている例であろう。

こういった既得権益を変えようとすると、弱いものをいじめるなという感情論が展開される。借家に住んでいるお年寄りを守ろう、とか環境を破壊し子供たちの遊び場を奪うマンション建設反対、とか日本の農業を守れ、といった意見である。物言わぬマジョリティはこれらにあたらず触らずを決め込んでいる。関わってトラブルに巻き込まれたくないのである。

累進最高税率を引下げ課税最低金額を引き下げると言うとすぐに金持ち優遇だと騒ぐが金持ち優遇ではなく金持ちの虐待を緩和するだけである。でもこんな正論を言える人はいない。

自分の言ったことが感情論で批判されるような社会ではまともな発言を誰もすることができなくなる。結果の悪平等を越えた結果の悪不平等が起っているのである。

 

1998.5.4.(MON)
<今日の一言>

冴えない天気が続いています。もう連休も終わりに近づいています。

自殺

自殺についてメールを何通か頂いた。どれも自殺とは絶対的な価値基準を持った行動というよりは衝動的なものではないか、という指摘であった。酒を飲んだ上での自殺となれば計画的なものというより普段溜まっていたものが発作的に噴出したというだけのものなのかも知れない。と色々考えてみたところで本人の気持ちは絶対に判らないし、自殺など考えたことがない人が想像しても無駄であろう。ただ計画的であれ発作的であれ、そこには精神的に大きなダメージが根本にあったことは事実だろう。

はっきりしていることは、どちらにしても自殺は結果的に自分勝手な行動だということだ。よく死んでお詫びするとか責任を取ると言って死ぬ人がいるが、死んだらお詫びもできないし責任も取れない。しかも周囲の迷惑である。中央線に飛び込もうが、富士山の樹海で死のうが、世間と関わりを持っている人が死ぬという事は個人だけの問題ではないのである。

責任やお詫びをするために自殺をする位なら、臓器バンクやアイバンクに登録でもした方が人の役に立つ。現世で人の為になる活動をしてもいい。死を美化するのではなく現実逃避として認識していくことがこれ以上命を無駄にしない為に必要なことである。

サイクルと根本変化

バブルの時の不動産価格と株価の上昇が永遠だと信じていた人はその後、手痛い目に会った。ブームと根源的変化を混同していたからである。

景気が回復すればインフレが発生すると警告し続けた有名なエコノミストは未だにインフレになると言い続けている。アメリカの経済は従来の景気サイクルを超えて成長を続けている。

根源的な変化と循環的な変化を見極めることが大切な世の中になった。根源的な変化のインパクトの方が循環的なものより大きくなってきたからである。変化は経済だけに留まらない。少子化、終身雇用の崩壊、外資系ブーム、ネットワーク社会、アングロサクソン経済の台頭、いったいどれが根源的でどれがブームなのであろうか。

 

1998.5.3.(SUN)
<今日の一言>

会社の人から痩せたね、と言われました。日経ヘルスでも買ってみようと思います。

国産ヘッジファンド

先月の話になるが、かつて為替相場で名を馳せた(らしい)人が日本人の手による初めてのヘッジファンドを作ったと聞いた。早速日系生命保険会社等から運用の委託が来ているという。ビッグバンを迎え、日本人もようやく金融マーケットで欧米と対等に闘おうという人が出てきたのかと期待したくもなる。

しかしこの話何かが違う。このヘッジファンドにはある元大蔵省財務官が無報酬で顧問に入っているというから行天、いや仰天する。その設立の裏事情はどうやら大蔵省肝入りの官製のヘッジファンドということらしい。外資系に日本市場を席巻されることを恐れた、官庁が一つくらい国産がないと、ということで設立を後押ししているのだろう。

ビッグバンとは市場原理を導入し、政府・行政はそのレフェリーを勤めるという仕組みを作ることではないのだろうか。だとすれば、審判がプレーヤーに肩入れするのでは、何も変らない。相変わらず何かチグハグな行動である。小手先の対応をしていると最後に大きなつけを払うことになる。その可能性は日に日に高まっている。

 

1998.5.2.(SAT)
<今日の一言>

ゴールデンウィークはずっと家に篭もりそうです。

考えよう

人間は自分の位置を絶対的には知ることはなかなかできないものである。自分が幸せかと聞かれれば、大半の人は何かと比べて幸せかどうかを判断する。それは過去の自分であったり、隣に座っている友人との比較かもしれない。

その人の幸福感は比較する対象が不幸であればあるほど増大するということである。差別や人を見下したりすることで相対的な幸福を味わおうとする行動はそれなりに理に適ったことであることがわかる。

日銀の理事の方が自殺した。元XーJapanのHideというギタリストも自殺した。彼らにどういう事情があったのかは判らない。もしかしたら本人ですらわからなかったのかもしれない。自殺した人には責任感が強い、真面目、といった共通点があるという。何かを突き詰めた時、死という絶対的な選択しか無かったのだろうか。

AERAを読んでいたら、管理職に就きたがらない30代、年の差結婚、といった見出しが飛び込んできた。管理職に就いて出世するより自分の生活を大切にしたい30代が増えているという。責任より自由、世間体より自分の生活に価値を置く生き方である。年齢の離れた人同士の結婚には多くの障害があることが紹介されている。本人達が自分で決めたことをきっぱり実行していく気持ちの良さがある。そして問題は割り切って、長所だけを見ていこうとするたくましさを感じる。

彼らのコメントを読んでいるとそこにはこだわりがない、という共通点を見ることができる。自分のやりたいようにやって、結果を受け入れる自然体の生き方である。世間体、地位、お金といったものではなく自分が本当にやりたいことなのか、という価値判断がある。

自殺とこだわりの無い生き方。方向はまったく違うが、絶対的な価値基準を持って行動しているという共通点があるように思う。どちらも物事を相対的にしか考えられない世間体にこだわる男には理解できないことなのだろう。

 

1998.5.1.(FRI)
<今日の一言>

会社の人事部長と昼食を食べたら、何かあったの?と何人かの人に聞かれました。ただインターネットの話をしていただけなんですけど。皆、結構暇なんですね。

売国奴

先月の日記に前の会社の人間から仕事について相談を受けたと書いたら、こんなメールを頂いた。

自分は決して会社側の人間ではないし、現に5年ほど前は家庭内のやめろコールに抗しきれず、辞めるときはどんなタイミングで誰に言うべきか真剣に悩みました。そんな身としては大変複雑なのですが、別に前の会社の人間と話をしようと恨まれることは何もないと思います。何を言おうとその気になった人間には単に正当性を見出す方便でしかないと思います。ですからむしろ会う機会があれば積極的に会って話をすればいいと思います。いい意味で各人が利己主義になった方が世の中うまくいく面もありますから。滅私奉公ではなく、活私奉公だと思いますので。

ビジネスマンは会社の為に働いているのでは無く、自分の為に働いているのである。この当たり前の事実を認識している人は少ない。各人の利己主義が全体としての調和をもたらす保証は無い。だからといって国の為、組識のため、皆のため、に何かをすることが解決策にはならない。むしろこういった建前主義こそ決別すべきときが来ているのではないだろうか。


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