エッセイ 2000年5月
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2000.5.6.
<今日の一言>
不定期の更新になってからも毎日50以上のアクセスがあり、更新の励みになっています。またメールで感想や情報をお送り頂いている方にもお礼を申し上げます。
認められる
怒りをそのまま他人に対してぶつけてしまう事件が増えているように思う。このような最近の風潮には教育や社会そのものの構造に根本的な問題があるのであろう。また事件にならないまでも怒りを心に持つ人は増えているように思う。その原因には認められたいという人間の欲望が満たされないということがあると思う。
誰もが自分を認知して欲しいと思っている。それがどのような形かは人によって様々であろう。ある人から見て些細なことが別の人にとってはとても重要であったりする。周囲の人に自分が大切にしているものを認知してもらうことで人は満足感を得る。それによって人との関わりを確認でき、疎外感から開放されるからである。
例えば、会社で仕事に充実感を感じる為には自分の仕事に対してきちんと評価をされることが大切で、成果が正当に評価されなかったりすると怒りとなる。部下が課長を飛ばして部長と勝手に仕事を進めると課長が難癖をつけたりするのは、仕事における自己の存在(幻想かもしれないが)を無視されたという課長の怒りである。
妻の髪型の変化に気が付かない夫が罵られるのは、お洒落をしたことを認められたいというメッセージが無視された妻の怒りであるし、友達に連絡すると言われたのに忘れられた時に不愉快になるのは自分の存在がその程度のものだという認知に対する怒りである。街中で他人にぶつかって何も言われないと腹が立つのはぶつかった時の痛みのせいではなく、自分という存在が無視されたせいである。
つまり怒りとは認知への欲望の表現なのである。
逆に言えば、怒っている人はそこに何らかの自己認知に対する不満があるということになる。そして必要としている認知を与えてあげればその怒りを静めていく事ができるのではないだろうか。
多くの人の多様な認知に対する欲望を満たすには社会全体が価値観の多様化を受け入れる懐の深さを持つことが必要である。画一的な価値観を押付け、合わない者を疎外する社会においては受け入れられない者が増え、その怒りが何らかの形で周囲にぶつけられる。
そしてもう一つ大切なのはコミュニケーションである。価値観が多様化すればするほど、以心伝心は通用しなくなる。自分の考えを相手に効果的に伝える方法を工夫しなければ認知されていないという誤解を招き易くなる。
バーチャルな世の中になればなるほど、生身の人間に触れたいという人間の本能が凝縮されていくようである。
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